夏目漱石の修学旅行

島原・天草の乱を再現!

生徒ら発火演習



 1637(寛永14)年11月14日、島原・天草の乱の本渡合戦が熊本県天草市の本渡北地区であり、天草四郎時貞(1621〜38)を総大将とする一揆軍と幕府軍が激しく戦った。そして今からちょうど120年前のその日、夏目漱石(1867〜1916)は赴任した熊本市の第五高等学校(現・熊本大学)の生徒らと共に天草、島原方面の修学旅行に出かけ、乱を再現する発火演習を行っていた。また俳句も作っており、正岡子規(1867〜1902)に送った「村長の羽織短かき寒哉」など一連の句は、この旅先で作った可能性が高いと熊本大学五高記念館の村田由美客員准教授は指摘している。


 漱石は1896(明治29)年、松山から熊本へ同校の英語教師として赴任して来た。そして同年11月14日から19日まで、教師と生徒ら総勢230余人が修学旅行へ行く。旅は熊本駅から宇土駅まで汽車で行き、さらに三角港まで歩く。そこから船で4時間かけて天草市の本渡港着。その後、島原や雲仙へ行き、熊本に戻るという5泊6日の日程だった。


 これを裏付ける資料として五高記念館の命令簿の中に、生徒修学旅行で出張を命令する文書があり、「教授 夏目金之助」の名があった。教職員は漱石のほか29人。当時の職員はほぼ全員参加しなければならなかった。さらに同年12月に発行された同校の校友会誌「龍南会雑誌」には生徒たちが書いた旅行記が残っている。それによると、今のような観光地を巡る修学旅行とは違い、当時は富国強兵が合い言葉の時代で、軍事教練の行軍だった。


 島原・天草の乱から数えて259年後のその日、漱石らも同じ場所で、乱を再現する演習を行う。史実によると、一揆軍は本渡町茂木根海岸に上陸し、本町から山を越え、苓北町の富岡城を攻撃しようとする。そこへ幕府軍が支援を派遣し、迎撃しようとする。両軍が激しく戦い、幕府軍側の肥前唐津藩士で、富岡城代の三宅藤兵衛(=重利=1581〜1637)が討ち死にした。漱石らもこの古戦場で軍事演習を行った。


 船之尾町の町山口川に架かる祇園橋あたりがこれまで激戦地として観光地化されていた。しかし近年の研究では、乱の戦闘模様をつぶさに見て、幕府に報告した古文書が1985年、天草郷土資料館の故・錦戸宏館長(1929〜2002・同館は03年に閉館)によって発見され、町山口川で戦った記録はないことが分かっている。


 演習はこの史実に基づくものだった。「龍南会雑誌」には地図が添付されており、箱の水(現本渡町本戸馬場)付近の高台に一揆軍の北軍が陣取り、それを防御するように幕府軍側の南軍が陣取っている。そして実弾こそ装着しないが、実践さながらの発火演習だった。その模様を付近の村民も仕事を休んで見物。小学校、済々黌天草分黌の生徒たちも見学した。一方、漱石自身は演習に参戦したかというとそうではなく、教職員のほとんどは列外で見学していたという。


 また村田さんは漱石が歌人の正岡子規に送った俳句の中には天草で作ったと思われる句があるという。
「凩(こがらし)や海に夕日を吹き落す」
 これは以前から天草で作られたものといわれてきたが、そのほかにも時期と詠まれている風景から、次の句を挙げる。


「村長の羽織短かき寒哉」
「革羽織古めかしたる寒かな」
「凩の松はねぢれつ岡の上」
「野を行けば寒がる吾を風が吹く」


 漱石が村長と出会う機会は恐らく、こういった行軍の時しか考えられないという。古めかしい出で立ちの村長がいたとすれば、漱石には珍しく見えて、句にしたのではないか、旅先でこれら一連の句を作ったのではないかと指摘する。


 漱石が熊本での4年間、修学旅行に行ったのはこの時と1898年(熊本県菊池市)の2回だけ。その中でも一番長い日程で、約400キロメートルの距離を歩いている。村田さんは「漱石は学生時代、軍事教練は嫌いで、何であんな思いをしなけりゃならないんだ、と書いている。そういう人がやったんだな、というおもしろさもある」と話している。


(2016/11/15)


更新履歴
◎4kデジタルシネマで番組公開(会員様限定) 2016/11/19

◎関連記事:西日本新聞「五高教師時代の漱石、天草で俳句詠む 村長の羽織短かき寒哉 修学旅行、軍事教練に同行」(2016.11.22付朝刊)



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